1. ホーム
  2. 研究
  3. 研究クローズアップ
  4. 人間環境学部 宮川 卓也先生

人間環境学部 宮川 卓也先生

研究室の扉

「歴史の中の科学と災害」を語る

人間環境学部 宮川 卓也(みやがわ たくや)先生

科学史と災害史

「科学史」という言葉を聞いたことがありますか? 字義通りだと「科学の歴史」ですが、では「科学の歴史」とはどういうものでしょう?「災害史」はどうでしょうか?これも字面を見れば「災害の歴史」で、災害への関心が高まっている昨今、耳にしたことがあるという人もいるでしょう。

過去の科学や災害について、歴史の教科書では過去の著名人やきわめて甚大な災害がごく簡略に触れられる程度です。高校までに学ぶ歴史とは違い、科学史も災害史も「歴史学」の一分野であり、過去に誰が何をしたのか、何があったのか「事実を知る」ことだけを目的としていません。その事実がどのような意味をもつのか考えることが歴史学です。科学史や災害史研究は、科学研究の変遷や自然観の形成、それらの当時の社会における意味、後の世代に与えた影響、また多様な災害の要因や社会的影響、当時の社会状況との関連性などを分析します。科学は社会の中で人の手によって営まれるものであり、災害は人間社会に無視できない影響や変化をもたらすことがあります。私たちの先達は自然をどのように理解し、何を探求の対象として捉え、災害にどう向き合ってきたのでしょうか。歴史学は様々な史資料から過去のできごとを掘り起こし、そのできごとが社会においてもつ意味を読み解き、それが現代社会を生きる私たちに何を示すのか探る試みです。私の最近の研究からその一端を見てみましょう。

気象学史 in 広島

広島県内の災害報告のはがき『諸県暴風報告綴込』 (広島市江波山気象館所蔵)

科学史と一口にいっても、科学のあらゆる分野(物理学や化学、天文学、医学、生物学など)にそれぞれの歴史があります。私が専門とするのは近代日本・東アジアの気象学史です。近代というのはだいたい19世紀中ごろから20世紀中ごろまでとされることが多いです。私は広島修道大学への着任をきっかけに、広島の歴史について調べてみようと気象や災害に関する史資料を探し始めたところ、興味深い史料に出会いました。それは広島測候所(現地方気象台)の設立に関する書類綴りや、測候所の初期の活動に関する貴重史料で、広島市江波山気象館(中区)に保存されています。史料を読み進めていくと、1879年(明治12年)1月に設立されるまでの経緯やその後の活動内容など、ほとんど誰にも知られていなかった内容が記されていました。広島測候所は県営の測候所としては日本で最も古いのですが、広島を含め地方の気象観測施設が初期の段階でどのように運営され、どのように事業展開していたのか不明な点は今も多くあります。史料群からは県令(知事)が測候所誘致に熱心だったこと、初期の観測員は短期の気象教育・訓練を受けた地元の下級士族が務めたこと、県内の村役場などに観測を依頼してデータを広く集めていたことなどがわかりました。しかしなぜ県令が気象観測に強い関心をもっていたのか、士族出身者の選抜基準は何だったのか、なぜ村役場は観測に協力的だったのかなど、まだわからない点も残っており、今後の課題です。それでもこの研究から言えるのは、いわゆる近代西洋科学というものが日本に導入されたとき、一部のエリートだけが科学に関する活動を担っていたのではなく多くの一般人も関わっていたこと、その過程で彼らは科学という新しい文化に触れたこと、その経験は文化としての科学が日本社会に普及していく端緒となったであろうということです。

災害史 in 広島

1945年9月17日の天気図(気象庁図書館所蔵)

過去に広島で発生した災害についても調査を進めました。明治から昭和にかけて広島は水害の多い街で、昭和前期まで数年に一度という頻度で大小の被害が出ていました。特に被害が甚大だったのが1945年(昭和20年)9月の枕崎台風です。そう、原爆投下から約1ヶ月後に猛烈な台風が広島を襲ったのです。原爆の惨禍について知らない人はいませんが、昭和三大台風にも数えられる枕崎台風については意外にも知らない人が多いようです。

9月17日に西日本を襲ったこの台風による死者・行方不明者は全国で3,756名、そのうち広島県だけで2,012名を占めました。なぜ犠牲者の半数以上が広島で発生したのでしょうか。台風の規模・強さは猛烈で、鹿児島県枕崎上陸時点で中心気圧916hPa、最大風速は60m/秒以上を記録し、広島上陸時でもそれぞれ948hPa、45m/秒以上でした。近年、台風や大雨の際に「何十年に一度」「百年に一度」といった表現をよく耳にしますが、枕崎台風はまさにそういう台風です。しかし台風の猛烈さだけでは広島の突出した被害規模を説明できません。他にどのような要因があったのか。それを知るには少なくとも明治初期にまで遡ってみる必要がありました。

上述のように広島は特に水害の多い街でした。明治に入ると殖産興業のかけ声の下に開発が進み、人口も急増して大量の木材が必要とされたことに加え、江戸時代まで厳格だった山林伐採に関する規則は遵守されず、広島周辺の山々は荒れました。山の保水力が低下したことで大小いくつもの河川が流れる広島で水害は増えました。

1930年代後半には戦時体制に突入してあらゆる物資が動員対象となり、従来以上に木材需要が高まって山林の荒廃はさらに進みます。治水事業計画(築堤など)も戦時体制下で中断され、街の防災機能は低いままでした。そうした状況下で原爆が投下されたのです。街のあらゆるインフラは徹底的に破壊され、生き延びた人びとも日々の暮らしに精一杯で防災対策など進められるはずもなく、接近する台風情報を入手するすべもありませんでした。
災害に対して完全に無防備だったのです。広島市街は水浸しになり、各地で氾濫や土砂崩れが発生し、多くの人命も奪われました。こうして広島は短期間に大きな災禍を連続して経験することになりました。

以上から指摘できるのは、大きな災害の背景には中長期的に複数の要因が蓄積されていること、災害が連続すると(これを複合災害といいます)被害は甚大となり、その実態の把握も難しくなることなどです。複合災害はこのときだけのものではなく、「3.11」(地震+原 発 事 故)もそうでしたし、現今のコロナ禍で例えば大きな地震や台風が襲えばそれは複合災害となり、被害拡大の可能性が高まるわけです。

歴史学を学ぶ・楽しむ

過去のできごとを「読み解く」ことは容易ではありません。実際に起こったあるできごとが、なぜ、どのようにしてそうなったのか問いを立て、種々の史資料を収集し、様々な角度から分析して状況を再構成し、さらにそこから意味を抽出する作業です。根気と読解力と想像力が求められますが、歴史学は私たちの現在地を知り、次なる一歩を踏み出すための道標を探る学問です。

ただ、過去から「教訓」を得るのも歴史学の目的の一つですが、私たちとは(同じ国の人であろうと)生活様式も思考回路も異なる過去の人びとがなぜそう考え、行動したのかを探求するのは知的好奇心を強く刺激します。私を含め歴史学者たちは過去の人びととの「対話」を「楽しい」と思うからこそ、史資料の山に埋もれて研究するのです。大学は「知的営為を楽しむ場」です。どのような分野であれ、みなさんにもこの知的興奮を味わってほしいと強く願います。

プロフィール

人間環境学部/ 宮川 卓也(みやがわ たくや)准教授
ソウル大学校 自然科学大学院 科学史科学哲学協同課程博士課程修了 Ph. D

▽専門分野
科学史、科学技術社会論
▽主な研究テーマ
近代日本の災害科学・気象学、近代の暦と社会

※掲載内容は全て取材当時の情報です。