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商学部 古川裕朗先生

地域社会の平和と安全と健康のために「美意識」を取り戻す

商学部教授 古川 裕朗(ふるかわ ひろあき)先生

大阪芸術大学大学院 芸術文化研究科 博士後期課程修了
博士(芸術文化学)
専門分野:美学、芸術文化学、哲学・倫理学
主な研究テーマ:ドイツ近代美学および現象学的美学における自然享受と芸術創造の感性的・倫理的問題

「targeted community(標的にされた地域社会)」と「危機管理としての人文学」

 2020年、国連の人権機関(OHCHR)では「拷問等禁止条約」を背景として、拷問・虐待に関する意見募集が行われました。その結果、世界各地に蔓延する「ギャングストーキング」についての情報が多数寄せられ、精神上・身体上の深刻な被害の実態が浮かび上がってきました。「ギャングストーキング」とは、集団で一人の人間を対象に様々な嫌がらせを行う拷問・虐待的犯罪の一種で、「コミュニティーストーキング」「オーガナイズドストーキング」とも呼ばれます。その嫌がらせ行為は狭義のストーキングに収まらず多岐に渡るため、総称的に「targeted individual(標的にされた個人)」とも呼ばれます。最終的に被害者は死に至ることもあります。私はこの犯罪行為の抑止と被害者救済に資するという目的に向けて「プラクシスの美学」の視点から研究を行っています。私の研究の特徴は被害者側の視点に立つだけではなく、加担者側のマインドや社会への悪影響を焦点化する点にあります。それゆえ「targeted community(標的にされた地域社会)」および「危機管理としての人文学」という概念を提唱したいと考えています。研究の手法は大きく三段階に分かれます。1)実態把握のための情報の収集と分析、2)原因究明に関する先行研究の分析考察、3)問題解決に向けた「プラクシスの美学」からの考察です。
  1)情報の収集と分析:犯罪の実態を把握するため国連の人権機関に寄せられた被害報告の読み込み作業と分析を行っています。その中で分かってきたのは、嫌がらせテクニックの種類の多さと著しい非人道性です。嫌がらせの種類は、「集団監視」「電磁攻撃」「信用毀損」の3つに大別できると私は考えます。「集団監視」では、盗聴・盗撮・ハッキングを利用した集団的なストーキングと監視の事実の示唆を行います。「電磁攻撃」では、高度な科学技術を駆使して電磁的な攻撃を被害者に対して遠隔的に行い、精神上・身体上の健康被害を引き起こします。「信用毀損」では、悪評の流布やプライバシーの暴露を通じて被害者の社会的信用を低下させます。私の研究では、これらの嫌がらせテクニックを心理的、精神的、肉体的、物理的、環境的、制度的、社会的等々の視点から分類整理し、被害実態の体系的な把握と理解を目指します。
 
 2)先行研究の分析考察:ギャングストーキングに関する被害報告を受け、国連の人権機関では「拷問や虐待を助長する生物心理社会的要因」というテーマで、原因究明に関する研究報告が行われました。私はこの研究報告の翻訳と分析を進めていますが、その報告の特徴は道徳的判断の非力さを強調する点にあります。その上で着目されるのが「利己心(self-interest)」の概念です。直訳するなら「自己への利害関心」と言ってもよいでしょう。ここでの「自己」は個人の場合もあれば集団の場合もあります。報告では、拷問や虐待行為に加担する人々の「利己心」に関して、「自己保全」「自己決定」「自己肯定」「自己正当化」「自己充足」への要求が基本要素として挙げられました。報告者によれば「利己心」それ自体は一般的なものですが、特定の状況においては過剰で歪んだ形で表れ、それが社会全体の「自己安住(complacency)」、言うなれば犯罪に加担する人々の思考停止状態を助長する一因となります。報告者はこれを「悪の凡庸さ(banality of evil)」という言葉で特徴づけています。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源』みすず書房

 3)「プラクシスの美学」からの考察:「思考停止」「悪の凡庸さ」はユダヤ系哲学者H・アーレントに由来する言葉で、ナチ時代に人々が残虐な行為に安易に加担してしまった雰囲気情況を言い表しています。そして、アーレントによると、このような情況には美醜の判断の欠如が関係しているとされます。この思想背景を踏まえ、ギャングストーキングの問題解決に向けて私は「プラクシスの美学」の見地から考察を進めています。「美学」の原語的な意味は「感覚論」「感性論」ですが、「人間(個人や集団)に対して襲い来る雰囲気的な情感性から自身の感性的な自由を保持しようとする点」に重心を置くとき、これを私は「プラクシスの美学」と呼びます。伝統的な美意識には「美」と「崇高」の2つがあって、特定の「利害関心」を免れていることが美意識が成立するための必要条件となります。そして、「美しい」という美意識は自身の自由な感覚能力を「自己肯定」する営みであり、「崇高」という美意識は自身の自由な理性能力を「自己肯定」する営みだと言えます。ギャングストーキングという行為は、立ち止まってよく考えれば美しくも崇高でもありません。にもかかわらず安易に人々が悪しき風潮に流されて犯罪に加担してしまうことの背景には、自己肯定的美意識の毀損状態があると予想されます。それゆえ、 襲い来る集団的雰囲気に対峙する上で道徳的判断に代わる美意識の有効性を本研究が明らかにし、そして人々が実際に本来の美意識を取り戻すなら、結果としてギャングストーキングの蔓延を抑止する効果が期待できます。

ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』みすず書房

ギャングストーキングの由来をナチズム(民族社会主義)に求める言説は少なくありません。現代における「新しい全体主義」と呼ぶ人もいます。この犯罪は「標的にされた個人」とも言われますが、コミュニティー全体がナチのイデオロギーに侵されて危機に瀕した時代を思えば、同時にこの犯罪は「標的にされた地域社会(targeted community)」という側面を多分に有しています。私は自身の美学研究を通じて、危険な犯罪イデオロギーから地域社会を守るという意味において「危機管理としての人文学」という概念を提唱したいと思います。
 
 ギャングストーキングの抑止と被害者救済を目指す本研究は、SDGsのうち特に16「平和と公正をすべての人に」という目標と関わります。2020年に国連の報告者は、世界的に蔓延する被害の深刻さを受け、その第16のアジェンダの中に報告の結論内容を反映させるよう具体的な提案を行いました。集団で個人を標的にするギャングストーキングは「誰一人取り残さない」というSDGsの誓いを真っ向から否定する犯罪に他なりません。広島に居を構える本学の教員としては、広島がこの犯罪に苦しむ世界の人々にとってのシェルター・シティ(shelter city)になることが平和都市広島の矜持を示すことにつながるだろうと考えます。
※掲載内容は全て掲載当時(2023年3月)の情報です。