広島修道大学 教職課程年報第16号
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■■一方,南浦ら( ■ ■)は多様性に関わる教育内容を教職課程において取り扱う際,「日本の教員養成の場面を見ると,多くの場面で,教室全体が当該の話題に関する『マジョリティ』の側に立つことが多い」ことから,「教室の中のほぼ全員を占める『日本人』の共通社会感覚に収斂されて理解されていく懸念がある」(南浦ら■ ■ ■,■■■ ■)と述べている。そのため,「日本の教師教育の中で多様性について学生に考えさせていくためには,こうした教室空間のマジョリティに対する■『意図的な仕掛け』が必要とされることが多い」(南浦ら■ ■ ■,■■■ ■)というのである。つまり,外国人児童生徒等については学ぶ機会の確保と同時に学び方についても工夫が必要なのである。■■.「特権」の自覚■■日本社会におけるマジョリティである「日本人」の履修者が多い教職課程において,児童生徒の言語的・文化的多様性を尊重できるようになるための学びとはどのようなものだろうか。その手がかりが,今日,注目を集めている「特権」(■■■■■■■■■)概念だと考える。■■「特権」とは,「あるマジョリティ性のアイデンティティを有した社会集団に属することで,労なくして得られる優位性」(出口■ ■ ■,■■■■)と定義することができる。社会的公正や反人種差別運動の文脈で広まった概念である。「特権」概念を広めた一人であるマッキントッシュ(■■■■)は「白人特権」について「日々無意識にあてにしている労せずに得た目に見えない資産のパッケージである」とし,「特別の食糧,地図,パスポート,コードブック,ビザ,衣服,道具,小切手帳の入った目に見えない重さのないナップサックのようなものである」(■■■■■■■■■■■■■,■■■■)と述べている。一方,出口( ■ ■)は「特権」を「自動ドア」に例えている。「特権を多く有している側の人すなわちマジョリティ性を多く持った人は目的地に向かって進もうとしたとき,自動ドアが常に開いてくれるので,ドアの存在自体をほとんど意識せずに目的地に辿りつける。ドアがその都度開いてくれることでますますドアの存在を意識しなくなり,特権があるということに気づかない。(中略)だが,特権を持っていない側の人すなわちマイノリティ性を多く持った人には自動ドアが開かないことが多い。自分に特権がないことに気づくと同時に,他の人に対してはドアが開いている様子を見ることで,『差別』に気づきやすい立場にいる」(出口■ ■ ■,■■■■)のである。そして,「こうした形で,ますますマジョリティ側とマイノリティ側の世界観についてのギャップが― 12 ―

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